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2016-07-06

家紋・祇園・モデルのイベントやります

ブログの更新をすっかり忘れておりました。
私は基本的にfacebookにおります。facebook上では家紋に関する投稿も行っております。興味あれば是非。

月に一度は「家紋四方山話」と題したタイトルで家紋の講座を行っています。
家紋に関する様々な内容を毎回話を変えてお送りしています。
京都では7月に入り、祇園祭が始まりました。
祇園祭や祀神である牛頭天王を知って頂こうと、「祇園祭講座」を行っています。(三回同じ内容で行います。一回目は7/2(土)でした。
また、私の主催する京都家紋研究会の初のイベントもあります。

以下が私が行っているイベントです。(リンク先は全てfacebookです。申し込みはfacebook上から行えますが、メールなどでも申し込みも可能です。

【祇園祭】祇園四方山話【牛頭天王】(イベントNo.51)
https://www.facebook.com/events/190370481360711/

【祇園祭】祇園四方山話【牛頭天王】(イベントNo.52)
https://www.facebook.com/events/1787349578165133/

<美しく見せよう!>現役モデルが教える着物・浴衣での美しいポーズの取り方
https://www.facebook.com/events/1229337473745436/

新家紋講座 家紋漫談(イベントNo.53)
https://www.facebook.com/events/1196710460360096/
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2016-07-06

曹洞宗金龍山清源寺と明田氏

我が家の家紋は割梅鉢という。これは梅鉢紋の中心を刳り抜いた紋。
自分の家のルーツを追うとともに梅鉢紋の謎も追っている。
割梅鉢

この割梅鉢に似た紋である割六つ梅鉢、及び六つ梅鉢を2011年に本能寺墓地で見つけて以来、様々な箇所で見つけている。
それらは全て「明田」姓であり、明田姓以外で見られないことから明田氏の独占紋とみても良いだろう。
六つ梅鉢割六つ梅鉢

今年2016年になってから不思議な縁で知り合ったとある人物がいるのだが、
その方と話をする機会があり、私が見つけた珍しい紋などを見て貰いながら家紋の話をしていた。
明田氏の家紋をたまたま見ていた時私が
「これの紋はうちの家紋に似ているけど、紋帖にはない。明田さんという名字だけにみられて・・・」と言ったとき、
「私の親類の寺の檀家さんが明田さんばかりなのです!」と仰った。
驚きを隠せなかった私は即「紹介して欲しい」と即連絡を取って貰い、後日、その寺へ向かうことになった。
その寺はタイトルにも書かせて頂いた「曹洞宗金龍山清源寺」であった。


曹洞宗金龍山清源寺
清源寺
京都府南丹市八木の寺、「曹洞宗金龍山清源寺」は木喰上人が逗留し、上人の目標であった、千躰の仏像を彫り終えた地。
元々天台宗であった寺で、付近の地形や現在残る地名、寺にかつてあったというお堂やその他情報などから推測すると、どうやら小比叡山のような世界を構築したと思われる地の中心的お寺のようだ。
こちらのご本尊は阿弥陀如来座像ですが、手を隠されている非常に珍しいもので、通称「手隠し阿弥陀」。
木喰上人の彫られた羅漢像も当然良いが、お参りの際はご本尊に手を合わされる時に、この非常に珍しい阿弥陀様も注目してみるとよいだろう。

寺にお伺いしたとき、ご住職がせっかくなのでと、檀家さんを呼んで下さった。
ご住職はこちらに来られて5年ということなので、詳しい話は檀家さんの方が詳しいと言うことで及びだて下さった。
檀家さんである明田さんから様々なお話を伺うことが出来た。
位牌や墓も見せて頂いたがほぼ明田氏であり、そこに入れられていた家紋はやはり割六つ梅鉢や六つ梅鉢であった。

明田氏が現在のこの地(南丹市八木)に来たのは応仁の乱での敗戦からであるという。
高槻市には明田町、京丹後市に大宮町明田という地名がある。
これらの地はまだ調べてはいないが、現在の明田氏の中心地は間違い無く八木である。
明田氏は明智氏の流れを汲むという伝説があるが、檀家の明田さんにその件をお伺いしたところ、縁もゆかりも無いそうだ。
「明智は明田の後に亀岡に来たから関係無いと思いますよ」
と笑っておられた。
明智氏が土岐氏族では無いという話もあり、明田氏が土岐氏族との関連も無いとのことで、たまたま南丹市や亀岡市付近で近かっただけの話が世に広がったのかもしれない。

さて、肝心の家紋のことだが、明田さん曰く、「七曜に剣をつけたもの」の可能性が高いという。
応仁の乱において星紋といえばやはり細川氏の九曜である。
敗戦して八木に来たということであれば西軍に属していたのであろうか?
それとも?
色々な考察は出来ると思うが、資料が無いため、想像にしか過ぎない。

今回のエントリーでは触れないが、梅鉢紋は元々は星紋ではなかったか?と私は考えている。
明田氏の家紋が七曜に剣をつけた紋であることが事実であれば、その可能性が大きくなってくるのではと思う。
因みに梅鉢紋が星紋であるという可能性についてはそれなりの確証があり、また後日こちらのブログでも書かせて頂けると思う。

そして今後も明田氏については追っていこうと考えている。


御朱印のご紹介

清源寺さんに新作の朱印が登場しました。
木喰上人の「釈迦如来」の朱印です。(下記右写真)
釈迦如来に木食瓢箪をあしらったこの朱印は書き置きのみで、日付は入りません。
限定では無いですが、ほぼ限定に等しい朱印のようですので、ご興味のある方はお早めに。(要電話確認)
木喰上人はお酒好きだったようで、木喰上人が吞むのに使ったであろう瓢箪を朱印のデザインに使っておられます。
実はこの瓢箪ですが、ご住職が育てられている瓢箪を割ったものを版として使っておられるとのことです!
通常の朱印は「木食羅漢尊」。左写真の左側のもので、右側は旧タイプのもの。
朱印限定朱印
2015-08-12

ご無沙汰です

ずいぶんと放置していました。
変わらず家紋研究しております。

最近、家紋を制作して欲しいなどのご依頼を多く受けております。
「家紋を新しく作る」ということは珍しくありません。
家紋はいわゆる庶民は明治に入ってから作った家は多く、家紋がどの家にもある(もちろん現在も無いお家は存在します)ようになってきたのは戦後の近代化のタイミングからだと思われます。
家紋を新しく作るのは家紋が無いお家だけではなく、「わからなくなった」「家紋を変えたい」という理由などが多いです。
「家紋を変えたり新しく作ってはいけない」という法律はもちろんありませんし、そんな習慣もありません。
家紋は基本自由です。
ですが、自由だからと言って、好き勝手するのも問題あると思います。
家紋と名字は元々対でありましたから、なるべく名字に対となる家紋のモチーフを選ぶのが良いかと思われます。
家紋は様々な制約から発展し、進化してきたものです。
まずは紋帖や家紋事典などをよくご覧になって、その上で専門家に相談するのが良いでしょう。

家紋は単なる模様ではなく、家を守る為の印です。
つまり意義や意味や主張の無い紋は単なるデザインにしか過ぎないのかもしれません。
着物の背中に家紋を入れる理由も「背守り」としての意味合いが強いです。
いわゆる「霊」は背中から入り込むとも言われ、気の動きでも背中は重要なポイントだそうな。
背中は自分の目の届かないところであるがゆえに家紋を付ける事で自分自身も守っているのかもしれませんね。

いよいよお盆です。
墓参りへ行かれる方も多いでしょう。
自分の家の家紋をご存じ無い方はご自分の家の墓に家紋がちゃんと刻まれているか確認してみてくださいね。
もし入っていない場合、家紋はちゃんとあるのかどうかを親や親族に聞いてみるといいでしょう。
もちろん分からないことも多いと思います。
そんな時は家紋の専門家にまず相談してみると良いと思います。
毎年のことですが、お盆や正月などの一ヶ月くらい前辺りから、私の著書『日本の家紋大事典』が動きを見せています。
やはり親族が多く集まる時期などには家紋が気になってくる方が多いのかもしれませんね。
少しでもお役にたてたら幸いです。

関係ないですが、いつか1万点を越える家紋を掲載した本を出したいなと考えてます。
非常にマニアックな本ですから、欲しい人いるかどうかは分からないですが。。。

それではまた。
2014-11-19

京都府下の寺社紋(寺紋・神紋)

日本の紋章には種類が様々ある。家紋もその中の一つであると考えるのが望ましい。
今回のメインテーマは「寺社紋」。読んで字の如く、「寺の紋」「神社の紋」のことである。
寺院が使う紋章は「宗紋」と寺紋」に別けられる。
宗紋は宗派による紋章。その多くは総本山などの寺紋を宗紋としているケースが多い。
寺紋はその寺の紋章だが、本来は宗紋と区別するもの(?)だが、寺紋が宗紋であるというケースもある。
神社が使う紋は総称として「神紋」といわれる。
神社が祀る御柱の象徴の紋章が本来は「神紋」であり、神社、つまりお社やお宮の象徴の紋章を「社紋」という。
しかし神紋と社紋が同じであることが大多数であるため、御柱の紋章も神社の紋章もひっくるめて「神紋」と呼んでいる。

私は家紋の研究のために、当初は墓地のみを巡っていた。
京都という場所にいながら、神社や寺に興味がなく、家紋のみに焦点をおいていた。
しかし気づけば、寺にも興味を持ち、その付近にある神社にも興味を持つようになった。
やがて、寺や神社の紋の収集も行うようになるが、訪れただけでは紋が何か分からないことも多々ある。
必ずしも神社で紋が見られる、寺で紋が見られる、というわけでも無いのである。
そこで「寺紋・神紋」をまとめた本や文献は無いのだろうか、と調べてみるが、これが無い。
家紋研究家の故丹羽基二氏の『寺紋』『神紋』以外に資料が見当たらない。
全国の寺社紋を調べる、網羅するのは非常に困難である。
今後のテーマとして、徐々にやっていくのは良いかもしれないが、まずは地元の京都から攻めていくのが一番であろうと思った。
現在、私が現在調べているのは京都府下の寺社紋があくまでも中心である。

寺紋を調べるにしても分からない所は連絡先があると電話で聞いてみたり、実際にお伺いして聞いてみたり。
神社についても同じである。
調査を行っていくと大変なのは無人の神社。
実際に訪れて、神紋が瓦などに見られれば良いが、そうでないことが多い。
隈無く探してみるが見つからないことは多々ある。
無人神社の多くは別の神社が兼務しているケースがあるため、そちらに伺って聞くことも可能なこともある。
しかし町中の無人神社の場合はどこが管理しているか、よく分からないことも多い。
個人で管理しておられる場合や店(会社など)が管理しているケース、町の管理のケースや自治体の管理のケースなど様々である。

実際、非常に困ったのが松原道祖神社の神紋である。
インターネットで祭事の様子の写真が見られたが、その幕には「左三つ巴」があった。
巴紋は「神社=巴」とされることもあるので、本当にそれが神紋であるかどうか疑わしいと思った。(もしかしたら無いかもしれないと事前に情報は得ていた)
様々な方法でようやく知ることが出来たが、私のイヤな予感は的中で、
「松原道祖神社の神紋は不明。無い可能性がある。祭事で使われた巴は神社だから巴のような感覚で入れたものであり、特別な意味も無い。左三つ巴、右三つ巴と違って入れていることもあるが、これにも意味は無い」
このような事実があった。

そして非常に困ったのが宗紋。宗紋のまとめのようなものがどうやら存在していない。
例えば装束店などではそのような資料があるのだろうが、一般の人間が一覧に触れることはほぼない。
ネットで調べてみてもイマイチよく分からないケースもある。
宗紋は必ずしも一つではなく、寺によっても使用状況が違うのである。

本能寺にお伺いし、寺紋について伺った時のことである。
私が家紋研究家であることを告げ、寺紋のことや宗紋のことを伺い、
「いつか宗紋や寺紋、神紋などをまとめた本を作りたいんです」
と伝えると、
「是非、作って頂きたいです!我々も欲しい」
そう仰った。
他宗派の紋を知らない方も多いとのことで、そのような本があると非常に便利だと言うのだ。

私が今一番やりたいこと。それは寺社紋を網羅した本を書くこと。
全ての寺社紋を網羅したものが理想であるが、まずは京都に絞った「京都寺社紋」の本を書きたい、そう思っている。
これは家紋の研究にもちろん繋がることである。
いつになるかは分からないが、数年内にはなんとか出したいものだ。
理想は出版社から出すことだが、自費出版しか手はなさそうだ。
さて、どうなることやら。

下記画像は私が描き下ろした寺社紋の一部である。(神紋、宗紋、寺紋が混同された状態ではありますが)
京都府下寺社紋小
2014-07-15

【祇園祭】八坂神社の御神紋はキュウリではない【マクワウリ】

八坂神社の御神紋は「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」である。

五瓜に唐花

五瓜に唐花紋は別名「木瓜(もっこう)」ともいう。
ただし、五瓜は五弁だが、四弁になると「木瓜」と名称を変える。
織田信長の家紋としても有名な五瓜に唐花紋は織田木瓜(おだもっこう)とも呼ばれている。

現在もこの紋については謎とされており、明確な答えが出ていない紋の一つである。
私がこの紋の謎を追い始めて四年、五年は経っているのではないだろうか。
御簾の帽額(みすのもこう)に描かれた文様が発祥とされている五瓜に唐花紋は「窠(か)」(穴冠に果文字)と呼ばれる。
窠とは地上に作られる鳥の巣のことで、かつては木に作られるものを「巣」と呼び、地上に作られるものを「窠」と呼んだという。
この「窠を象ったもの」ともいわれるが、非常に怪しい。
初めて使ったのが徳大寺家とされる。

この紋について、今までに幾度となく、原稿を書き直した。
『歴史読本』に載せる原稿として当初は執筆していたのだが、結局まとまることなく、連載は終了してしまった。
このブログに載せる事柄はこの紋に関する極一部の情報である。
今後も、この紋の真相を追い続ける所存だ。

八坂神社の御神紋はキュウリではない
少なくともこれは間違い無いだろう。
様々な話が入り交じって出来た俗説である。
かなり乱雑ではあるが、次に四項目に分けて書いてみた。
今後もまだ見ぬ文献などや話で私の考えはどんどん変わると思うが、現在の私の考えを書いてみた。


キュウリではなくマクワウリ

この五瓜に唐花紋がキュウリの断面に似ていることから、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾町の人びとは祇園祭の期間である七月はキュウリを食べないという。
この話から、五瓜に唐花紋は「胡瓜の断面を象った紋」と言われることがある。
しかしこれは明らかに間違いである。あくまでも「胡瓜の断面に似ている」とされているだけである。
五瓜に唐花紋は祀神である、スサノオ及び、かつての祀神である牛頭天王を表す紋。
このことに違いはないが、何故この紋が選ばれたのかは謎である。

そもそも神社が紋を使い始めた時期も不明だ。
「洛中洛外図」で現存する最古のものは『歴博甲本』(1525年頃。室町時代)。
これを見るとすでに山鉾には五瓜に唐花がついていることから、少なくともこの頃にはすでに八坂神社は五瓜に唐花紋を使用していたのだろう。
また、商家には屋号も見られる。
すでに室町時代には日常的に紋が見られるような時代であったことは間違い無いだろう。

さて、五瓜に唐花は御簾にある模様が紋章化した紋であるとされている。
これが事実であれば、胡瓜を象った、というのは間違い無くデタラメだ。
そもそも「五瓜に唐花紋は胡瓜の断面に全く似ていない」。
私が「胡瓜の断面」の話を知った時、「似てないのになんで似てるとか言ってるのだろう?」と不思議でならなかった。

結論を先に書くが、私の導き出した答えは、
牛頭天王と密接な関係にある瓜、すなわちマクワウリ(真桑瓜・甜瓜)と「胡瓜の断面が徳川家の葵紋に似ることから、胡瓜を食べない」という話が入り交じって混同されてしまったのではないか?
ということである。
どちらかと言えば、胡瓜の断面は五瓜に唐花紋よりも徳川の三つ葵紋に似ているように思う。


江戸時代、胡瓜は食べられていた(ただし美食家曰く、不味い)

7/2に染色補正森本で行ったイベント「家紋と京都の四方山話」の中でお話したことの一つが7/4に京都新聞に掲載された。
WEB版『京都新聞』はこちらから
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140707000020

不細工なおっさんが写っているので非常にお見苦しく申し訳ない。
さて、この記事に書かれたことは実は正確ではない。

「江戸時代に胡瓜は食べられていない」
そんなことはない。食べられていた。
胡瓜は奈良時代~飛鳥時代の頃に大陸から渡来している。
「胡」はペルシャのことであり、胡人というと「ペルシャ系ソグド人」を指す言葉である。
ソグド人はもちろんペルシャ人のことである。因みにペルシャは現在のイラン。
ペルシャから直接シルクロードを通ってやってきたのか?
それとも半島辺りに定着した瓜が渡来してきたのか?
そこまでは分からない。
いずれにしても胡瓜は古くから日本に根付いていた。もちろん食用としてである。

徳川光圀は「毒多くして能無し。植えるべからず。食べるべからず」
貝原益軒は「これ瓜類の下品なり。味良からず、かつ小毒あり」

胡瓜についてこんなにも不味いと言っている。
しかし、庶民にとっては無くてはならない食材であったに違い無い。
不味くて食べられないものであるのならば、現代まで栽培されることはなく、廃れてしまっているだろう。
因みに胡瓜が現在のように美味しく品種改良されたのは幕末の頃であるという。
「不味い」と言っている人たちは位の高い人間であり、美食家であるから、イコール食べていないにはならない。

また、先にも書いたとおり、
「胡瓜の断面が徳川家の葵紋に似ることから、胡瓜を食べない」
とも言われたそうであるから、この話も関わりがあるかもしれない。
「徳川を喰うな」
そう言っているようにも捉えることが出来なくもないが、そうであるとするならば、自虐的過ぎる。


マクワウリから胡瓜に変わった

これは間違い無いだろう。
牛頭天王に関わる話ではその多くが「瓜」である。
この瓜は「マクワウリ」のことであるが、マクワウリの断面を見ても特に五瓜に唐花と似ることはない。
因みに瓜系で最も五瓜に唐花に似るのは「パパイヤ」である。
パパイヤは漢字で書くと「番木瓜」と書く。
「木になる番い(つがい)の瓜」である。これを輪切りにすると五角形であり、五瓜に唐花紋と酷似する。
さらに中国では「木瓜」とは「花梨(カリン)」のことであり、「モークワ」と発音され、台湾では「ボッコエ」と発音される。
これが日本に伝来の際、モッケやボッカなどに訛ったようだ。
少し話が逸れるが、
古い紋帖などを見ると瓜(か)紋は旧字表記で「クヮ」と読みが書かれている。
後世「クヮ=カ」と直されたが、実は文字通りの「クワ」という表記が正しく、瓜(カ)ではなく、瓜(クワ)だった、という可能性もあるかもしれない、と最近思ったりもする。
もしそうであるとすると、五瓜に唐花紋の五瓜とは文字通りの瓜の可能性があるのではないだろうか。
極希だが、古い紋帖では「五瓜(ごか)」を「五瓜(ごうり)」としている表記があるのも事実である。

そもそも私は「何かの断面」という解釈ではない、と思っている。
しかし仮に断面説を肯定するのであれば、
パパイヤの断面図であり、日本では定着していなかったパパイヤの変わりに最も普及していた瓜であったマクワウリが選ばれた。
そう解釈も出来るのではないだろうか。


八坂神社

では、最後は簡単に八坂神社の歴史について書いておく。(facebookに投稿したものをそのまま引用)

八坂創建以前、八坂郷には八坂造(やさかのみやつこ)と名乗った渡来系の人びと(出雲系の可能性もアリ。八坂神社には方墳がある。方墳は出雲族の古墳)が住んでいた。
八坂には底が深い池があり、水の豊富な地域であった。
八坂造はこの池に龍神を祀ったという。
池周辺では瓜(マクワウリ)を栽培し、龍神に奉納していた。

八坂神社は高句麗の伊利之使主(いりのしおみ)が656年に創建。
ただし、この頃の名称は不明。
伊利之使主は創建と共に八坂造を名乗るようになった。
この時に祀ったと思われるのが頗梨采女(はりさいにょ)である。
元より、祀っていた龍神と集合した可能性が高く、頗梨采女が神泉苑の善女竜王と同一視されるのはこのことが原因と思われる。
876年に僧である円如が播磨国広峯に祀られる牛頭天王を分霊し、観慶寺という寺となる。この寺が祇園寺と呼ばれるようになったが、これは牛頭天王が祇園精舎の守護神といわれるためである。
926年に僧(不明)が祇園天神堂を建立。この天神堂が現在の八坂神社の原形。
さらに934年には祇園感神院を建立することとなる。

いつからどのタイミングで、牛頭天王とマクワウリが関係を持つのかは不明。
逃げてきた牛頭天王がマクワウリ畑に隠れたことで難を逃れ、栽培していた村人に「瓜のお陰で助かったから、瓜を珍重するように」というような内容を牛頭天王が言ったという。
この話が牛頭天王とマクワウリを結んだ話のきっかけかもしれない。

因みに牛頭天王は新羅から瀬戸内より備後国、つまり現在の広島県福山市に渡来している。
現在の福山市の素盞嗚神社がこそが日本で最初に牛頭天王を祀ったとされる場所だ。
因みにこの神社が茅の輪の発祥の地といわれる。
この後に播摩に勧請。
その後、播摩の牛頭天王は京都の八坂郷の瓜生山に降臨したとされる。
プロフィール

森本勇矢

Author:森本勇矢


京都市在住。38歳。
本業である染色補正の傍ら家紋研究家として活動する。
京都家紋研究会会長。日本家紋研究会理事。
月刊『歴史読本』への寄稿をする他、新聞掲載・TV出演など。
著書『日本の家紋大辞典』(日本実業出版社)
家紋制作、家系調査などのお仕事お待ちしております。

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