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2016-07-06

曹洞宗金龍山清源寺と明田氏

我が家の家紋は割梅鉢という。これは梅鉢紋の中心を刳り抜いた紋。
自分の家のルーツを追うとともに梅鉢紋の謎も追っている。
割梅鉢

この割梅鉢に似た紋である割六つ梅鉢、及び六つ梅鉢を2011年に本能寺墓地で見つけて以来、様々な箇所で見つけている。
それらは全て「明田」姓であり、明田姓以外で見られないことから明田氏の独占紋とみても良いだろう。
六つ梅鉢割六つ梅鉢

今年2016年になってから不思議な縁で知り合ったとある人物がいるのだが、
その方と話をする機会があり、私が見つけた珍しい紋などを見て貰いながら家紋の話をしていた。
明田氏の家紋をたまたま見ていた時私が
「これの紋はうちの家紋に似ているけど、紋帖にはない。明田さんという名字だけにみられて・・・」と言ったとき、
「私の親類の寺の檀家さんが明田さんばかりなのです!」と仰った。
驚きを隠せなかった私は即「紹介して欲しい」と即連絡を取って貰い、後日、その寺へ向かうことになった。
その寺はタイトルにも書かせて頂いた「曹洞宗金龍山清源寺」であった。


曹洞宗金龍山清源寺
清源寺
京都府南丹市八木の寺、「曹洞宗金龍山清源寺」は木喰上人が逗留し、上人の目標であった、千躰の仏像を彫り終えた地。
元々天台宗であった寺で、付近の地形や現在残る地名、寺にかつてあったというお堂やその他情報などから推測すると、どうやら小比叡山のような世界を構築したと思われる地の中心的お寺のようだ。
こちらのご本尊は阿弥陀如来座像ですが、手を隠されている非常に珍しいもので、通称「手隠し阿弥陀」。
木喰上人の彫られた羅漢像も当然良いが、お参りの際はご本尊に手を合わされる時に、この非常に珍しい阿弥陀様も注目してみるとよいだろう。

寺にお伺いしたとき、ご住職がせっかくなのでと、檀家さんを呼んで下さった。
ご住職はこちらに来られて5年ということなので、詳しい話は檀家さんの方が詳しいと言うことで及びだて下さった。
檀家さんである明田さんから様々なお話を伺うことが出来た。
位牌や墓も見せて頂いたがほぼ明田氏であり、そこに入れられていた家紋はやはり割六つ梅鉢や六つ梅鉢であった。

明田氏が現在のこの地(南丹市八木)に来たのは応仁の乱での敗戦からであるという。
高槻市には明田町、京丹後市に大宮町明田という地名がある。
これらの地はまだ調べてはいないが、現在の明田氏の中心地は間違い無く八木である。
明田氏は明智氏の流れを汲むという伝説があるが、檀家の明田さんにその件をお伺いしたところ、縁もゆかりも無いそうだ。
「明智は明田の後に亀岡に来たから関係無いと思いますよ」
と笑っておられた。
明智氏が土岐氏族では無いという話もあり、明田氏が土岐氏族との関連も無いとのことで、たまたま南丹市や亀岡市付近で近かっただけの話が世に広がったのかもしれない。

さて、肝心の家紋のことだが、明田さん曰く、「七曜に剣をつけたもの」の可能性が高いという。
応仁の乱において星紋といえばやはり細川氏の九曜である。
敗戦して八木に来たということであれば西軍に属していたのであろうか?
それとも?
色々な考察は出来ると思うが、資料が無いため、想像にしか過ぎない。

今回のエントリーでは触れないが、梅鉢紋は元々は星紋ではなかったか?と私は考えている。
明田氏の家紋が七曜に剣をつけた紋であることが事実であれば、その可能性が大きくなってくるのではと思う。
因みに梅鉢紋が星紋であるという可能性についてはそれなりの確証があり、また後日こちらのブログでも書かせて頂けると思う。

そして今後も明田氏については追っていこうと考えている。


御朱印のご紹介

清源寺さんに新作の朱印が登場しました。
木喰上人の「釈迦如来」の朱印です。(下記右写真)
釈迦如来に木食瓢箪をあしらったこの朱印は書き置きのみで、日付は入りません。
限定では無いですが、ほぼ限定に等しい朱印のようですので、ご興味のある方はお早めに。(要電話確認)
木喰上人はお酒好きだったようで、木喰上人が吞むのに使ったであろう瓢箪を朱印のデザインに使っておられます。
実はこの瓢箪ですが、ご住職が育てられている瓢箪を割ったものを版として使っておられるとのことです!
通常の朱印は「木食羅漢尊」。左写真の左側のもので、右側は旧タイプのもの。
朱印限定朱印
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2011-06-29

時代による墓石の違い&彫りミス

本格的に墓地調査を開始してまだ二ヶ月弱といったところだが、現在までに20カ所ほど墓地をまわった。
他府県の墓地に足を踏み入れたことが無いので自分自身では比べようがないのだが、京都の墓地をまわって思うのが、古い墓が非常に多いということを感じる。
墓石に刻まれる文字を見る限りでは江戸時代のものも思った以上に多い。
明治、大正、昭和初期、そして現代。様々な年代の墓が混在している。

墓地をまわって気づいたことを今回のエントリーではいくつか記載させて頂こうと思う。

【形状の違い】
今まで墓石についてあまり気にとめたことはなかったのだが、その種類の多さに驚きを隠せない。
形状の違いについては他のサイトやブログで多く記載されてるためここでは記載しない。
(知識が浅いということもあるが・・・)

【素材の違い】※素材の名称を詳しく知らないのであくまで「雰囲気」で書かせて貰ってます。
大まかな雰囲気でだいたいの時代は見えてくる。
江戸時代の墓は年月が物語る風化などで判断しやすい。
明治初期~大正時代のものと雰囲気は似る。ここまでは刻まれた文字に頼るしかない。
ただし、大正の頃から少しずつ石の素材が変わってくる。
昭和初期の頃のものとなると、白っぽい墓石になってくる。

【製法の違い】
江戸時代の頃の墓石を見ると「ひび割れ」をしているものが多い。
宗派によって違いはあるであろうが正面には主に戒名が刻まれていることが多いようだ。
名字や屋号の多くが側面の部分に刻まれている。しかし剥がれ落ち、名字や屋号を知ることすら出来ない場合も多い。
ここで注目すべきは「剥がれ落ちている」ということだ。
表面から剥がれ落ちているのは厚さが1~2センチといったところであろうか。
このことから自分が推測するのは土台となる石のまわりを塗り固めているのであろうということ。
何で塗り固めているのかまでは分からないが、現代でいうコンクリート的なものではないかだろうか。

【彫り方の違い】
製法の違いで触れたように、江戸の頃の墓石はまわりを何かで塗り固めていることには間違いない。
現代の墓石は石そのものを削り彫っている。
自分は石材屋ではないので詳しくは知らないが、現代ではいわゆる機械彫りが主流で、思い通りの彫り方が可能だ。
そのため細かな彫りも可能となっており、複雑な形状のものなども容易に彫ることが出来るのだろう。
しかし江戸時代の頃は当然手彫りである。
石を現代のように彫る技術というのは乏しかったと思われる。
そこで考えられたと思われるのが、塗り固めるという方法なのだろう。
あくまで推測でしかないのだが、江戸時代の頃の墓に刻まれた文字や家紋などは固まる前に彫られていると思われる。
江戸時代の頃の墓石に彫られた文字や家紋を見ると、その綺麗さに驚く。
まるで墓石に書いたような達筆なのだ。紋の線(上絵)も非常に綺麗に残っている。
さらに驚くのは線の細さにも変化が付けられているということだ。
例えば蘂(しべ・すべ:葉脈のこと)は限りなく細い線で彫られているのに対し、それら以外の線は少し太めに彫られていたりすることがあるのだ。
これらの芸当は堅い石に対して当時ので技術で出来るものだとは考えにくい。木材のように出来るわけがないからだ。
つまり固まる前の柔らかな状態で細工を行っているとしか思えないのである。
江戸時代の墓の一例
※側面に入った紋の部分のみが少し崩れた例。
ちなみに紋は「左走り馬」であるが、紋帖や『日本家紋総監』では見られない形状である。

【昭和初期の墓石】
彫り方の違いで触れたように江戸時代の墓石は乾く前に彫られたと思われる。
その技法は明治に入っても行われていたと思われ、大正時代もほぼ同じであろう。
問題は昭和初期(大正の頃もあったかもだが)の墓石である。この頃から素材は一変している。
素材の違いで少し触れたが、昭和初期の墓石は白っぽい素材だ(それが何か私は知らないが)。
この頃から現代に通じる彫り方になってきている。しかし現在のものと比べると彫りは浅い。
そのため、紋の形状が確認しづらかったり、確認出来なかったりする。
そして面白いことにこの頃の彫りで時々見られるのが「ミス」である。

【彫りミスとは?】
昭和初期の頃から彫り方が変わった。
それまでの彫り方は先ほど述べたとおりで、その彫り方のほとんどが着物や印染めに描く通りの手法であることが多い。つまり直接彫るように描いているわけだ。とはいえ全く全てがそういうわけでは無い。
先日書かせて頂いた「祇園守 ~ステキな紋との出会い~」で掲載した祇園守紋のように浮き彫り風にしていることもある。
ただし、これは紋の部分だけを予め盛ってから彫っていると思われる。

さて、ミスとは何かということだが。
それまでは描くように彫ってきたものが、突然と変わったことによって、彫り手が解釈違いをしてしまっている、というものだ。
それは浮き彫りと彫り込みが混在してしまい、一見何が彫られているのか分からないというものが存在するのだ。
本来彫り込みで表現する部分が浮き彫りで表現されているものが多々見られる。
写真を載せることで問題が生じる可能性もあるので、その間違った彫りをしているものを簡単にトレースをしてみた。

浮線扇
これが通常の「浮線扇」。紋帖などで見られる形式のものだ。
浮線扇(反転)
これは反転したもの。ネットでよく見かける。
そしてこれが「彫りミス」をした墓石をトレースしたもの。
彫りミス浮線扇

黒が「彫り込み」の部分で、グレイが「浅彫り」をしてある部分だ。
「浮線扇」紋は「浮線蝶」という蝶紋を扇で擬態させたいわゆる擬態紋と呼ばれるものである。
そのため、触角のようなものがある。
この触角の解釈が実におかしい。この彫り方だと触覚部分は彫らずに残しておかなくてはならないのだ。
だが、この墓石ではこの部分が彫られていた。そして中央の畳んだ状態の扇もおかしい。
触覚部分の解釈が不自然なため、中央で本来彫られるべきの箇所(円形の辺り)が彫られていないため、ぱっと見の印象では一体何の紋なのかが分からないのだ。
今回はトレースして理解して貰えるよう色分けをした上に、予め「浮線扇」であるということを説明しているので、「彫りミス」の紋を見ても「浮線扇」と判断出来るが、実際に墓石を目の当たりにすると、それが「何なのか」分かるまでに時間がかかった。
始めて見たときは「中央にあるのは団扇か?」と思ってしまったほどだ。

これはあくまでも一例だ。
他にも似たように解釈を間違えて彫られた墓石は存在している。
現代のものや江戸、明治、大正の頃の墓石には見られないミスである。
もちろん紋帖や紋図鑑などで見る形状と若干異なるのは表現の違いや感性の違いによるところは大きい。
しかしこれは明かなミスである。
この墓の家の主がこの事実をご存じかどうかは定かではない。
仮にお教えしたところで彫り直すというのも難しい話しだ。



今回執筆させて頂いたエントリーはまだ墓地巡りを始めて日が浅い私自身が感じたことを書いただけである。
もちろん今後の調査やご教授されることで、また変わってくるだろう。
そしてこのエントリーで解説させて頂いた話しは次にエントリーする記事への布石である。
次は「古い墓石に感じる」ことを書いて行きたいと思う。

長文で失礼。ではまた。

ARK@遊鵺
2011-05-09

屋号

現在私が調査を行った墓地の数がまだ少ない。
しかしそこで出会った家紋だと思い込んでいたものが実は屋号であるという事実も徐々に浮上してきた。

前回のエントリーでお伝えした「山形に縦棒に点」は結局のところそれが何かは分かっていない。
家紋worldさまが似た家紋をお教え下さったが、どうやらそれとは違うようだ。
教えて下さったものは「竪一つ引きに星」であった。
こちらが発見したものは「竪引き」にしては先端部が丸い。
「星」にしても小さすぎるように思えるし、ずれた箇所に刻まれている。
これで一番不可解だったのは「山形」と「縦棒に点」の刻まれた時期が違うというものだ。
見た目にはどう見ても「縦棒に点」が後から刻まれたものにしか見えないのである。

果たして家紋にこのようなことをするのであろうか?
その真意はともかく、墓石の調査を行っていると見えてきたことがある。
それは「側面に刻まれているものの多くが字のものが多い」ということだ。
屋号?
例えばこの写真のように刻まれている。(写真内右に壷)

日本家紋研究会会長の高沢等氏に伺ったが、
「こちら(関東方面)とは墓石の形状も違うし、このように(側面などに)刻まれているものはあまり見ない」
とおっしゃっていた。

そしてこれらは屋号ではないかということになっていくわけだが、その特徴を下記に示しておく。

■側面に刻まれている。主に上部
■屋号と思われるものの下には「○○屋」刻まれていることが多い
■側面に刻まれている以外に、正面に家紋が刻まれている場合がある
■江戸時代~大正時代にかけての墓石に多い

これらは私自身が調査を行って感じたものであり、間違っている可能性もある。
ここで始めて「屋号」をインターネットで検索してみた。
私はてっきり「屋号=ロゴ」、つまり現代における会社のロゴだと思い込んでいたが・・・。
自分の無知に呆れた。
屋号についての説明は省く。
簡単ではあるがウィキペディアでよろしく。

さらに「買物独案内」という文献があることを知った。
これは現代でいういわばタウンガイドのようなもの。
『江戸買物独案内』『商人買物独案内(京都買物独案内)』『商人買物独案内(浪華買物独案内)』、『甲府買物独案内』などが存在する。
主に大都市の商職種を掲載した文献だ。
これには屋号や所在地が記載される。
この文献を見ればどんな屋号が存在するか分かるのだ。

ネットで検索するとデジタルアーカイブもあり、まとめたサイトもあることが分かった。
これらを利用し「家紋か屋号」かの判断も出来るようになるであろうと思う。

私の家紋の調査は今後屋号の調査も必然となってくるだろう。
調査項目がまた一つ増えたことに違いはないが、これもまた家紋をめぐる冒険の一つなのだ。


【今後の課題】
■墓石についてもっとよく知る
墓石調査をしているわりには墓石についての知識が稀薄であるため。
石材関連の情報お持ちの方ご教授願います。


ARK@遊鵺
2011-04-29

前途多難

ちょっと先を見すぎた気がする。

今日は休みだったし、天気も良かったので近所のお寺さんに行った。
高山寺

同じ町内にあるお寺。一言声をかけて入るつもりが少々の雑談をすることになったりw
以前に町内で役を持ってたことがあった。
町内の集まりはこのお寺さんを利用させてもらうことが多く、
何度か来たことはあったが、墓地にお邪魔するのは今回が初めてだ。

入ってみると思ってた以上の墓石の多さに驚いた。
事前にグーグルマップでチェックはしていたのだが予想を越えていた。

MAP01
(実はこっそり我が家が写ってますw)

前回と同じく、墓石全体と家紋を撮っていく。
しかし墓石全体を撮るだけでそれに付く家紋の形状が分かるものに関しては墓石のみにしておいた。
ただ、この墓地はかなり墓石が詰まったような雰囲気で、通路?が極端に狭いところが多かった。
そのために墓石全体を写すことが困難の場合が非常に多かった。
苗字と家紋を別々に写すしか無い場合も多かったので思ったより骨が折れた。
結局の今日は全てを撮ることが出来なかった。
無念だ。3/4ほどは撮れたと思う。
このブログを書く前に写真の枚数をチェックしたら500枚ほど撮っていたようだ。
思っていた以上に撮っているな・・・。

っというわけで、今日は全てを撮ることが出来なかった。

先日から、グーグルアースで京都市内の墓地をチェックしている。
墓地を見つけたらピンを刺していくという方法をとっている。
上空から墓地を見ているとその規模がよく分かる。
今日行った「高山寺」は決して規模の大きなものではなかったのだが
実際に足を運ぶと想像以上の墓石の数に驚いた。

京都最大の墓地は「大谷本廟」、通称「大谷墓地」である。
MAP2
かなりの大きさ、かなりの墓石の多さだ。

しかしやはり最大のものといえば、東京の「青山墓地」だろう。
墓マイラーにとって聖地を呼ばれる場所だ。

MAP03

この規模は確かに凄まじい・・・。
大谷墓地と比べるとその規模は倍に近いように思える。
しかし・・・大谷墓地の墓石の密度も凄まじいものがある。
いずれ大谷墓地を調査する予定はしているが、今日のように気楽に行くレベルでは無いなと思った。
何度も通う必要がありそうだ。

ちなみにだが、冒頭でグーグルアースでチェックしていることを言った。
まだまだ抜け落ちはあるが、現在のチェック状況は以下の画像の通りである。

MAP4

全国をまわって家紋を収集した家紋研究家にとってのバイブル『日本家紋総監』。
しかもこれは拓本だ。
私が今行っている収集方法はあくまでもiPhoneでの撮影。(そのうちデジカメでやりますが)
日本家紋研究会元会長の千鹿野茂氏と高澤等氏のその労力は凄まじいものがある。
改めて凄い。
そう思えた。


【オマケ】
今日、高山寺の調査を行っていたら、何組か墓参りに来られていた。
その方々は当然お参りが済むと帰られる。
私は気にせず調査をしていたわけだが、人の気配を不意に感じた。
なんだろうと自分のいた箇所から奥の方へ見ると、
一瞬、人が走って消えたように見えた。

あれはなんだったのだろうか。
気のせいだとは思うのだが。


【お詫び】
今回も家紋の写真や画像が無くて申し訳ございません。
本日の調査で珍しいと思える家紋に遭遇はしました。
いずれご紹介する日がやってくるかもしれません。


ARK@遊鵺
2011-04-27

第一歩

2011年4月26日(火)曇り

家紋研究家と自称するには極めて恥ずかしい告白ではあるが、実は初めての墓地への家紋調査だ。
これが家紋研究者としての第一歩となるのだろうか。
家紋について学び始めてから数年経つが実質これが初の調査となる。
今まではあくまでも書籍・ネットが基本だった。
外での調査に近いものと言えば、たまたま見つけた変わった紋などを写真に撮る程度だった。
自ら家紋を求めて行くという行為は今回が初である。


京都はやはり墓地は多い印象。
墓地を持ってる寺が当然多いので町中に墓地は溢れている。
しかしその多くは寺の壁によって遮られているのでそこに墓があるかどうかは一見判断出来ない。

そこで使用したのがグーグルアース
高空写真で判断するだけであれば、Googleマップを使えばいいが、
グーグルアースを使うとピンを刺してお気に入り登録出来るから便利。
自分の場合は「調査候補」「調査済み」などのフォルダを作ってそこに入れていくことにした。

先日から調査へ行こうと思っていたのだが、連日雨で行けなかった。
昨日ようやく雨が降らず、行けるタイミングがあったので行くことにした。

候補地は以前から色々考えていた。
グーグルアースで京都を見ていると実に多くの墓地があることを思い知らされた。
初動調査はやはり墓の数が少なそうな所から始めようと考えた。
そこで目を付けたのが先日から気になっていた宝ヶ池の側にある墓地。

宝ヶ池といえば「京都議定書」で有名?な国立京都国際会館(見た目は地球防衛軍の基地を彷彿させるっっっ)。
その宝ヶ池に行く道、以前は通称「狐坂(狐のしっぽのように深く曲がった上り坂)」と呼ばれていたところがある。
(現在は工事され走りやすくなった。以前は事故もあったようだったしかな)
この通りの横手にその墓地はある。
しかしどうやって車で入り込めばいいのか分からなかったので、結局は宝ヶ池公園の駐車場に駐め、徒歩で向かった。

実際に側まで行くと小さな駐車場があったが、そこにどうやって入り込むのかよく分からなかったが、まぁいいとしよう。
その駐車場にあった看板で分かったことだが、この墓地は涌泉寺のものであることが分かった。
うっかり写真撮るの忘れてしまったが。

そしてようやくスタートした家紋調査。
調査と言っても家紋が施された墓石を撮るだけという実にシンプルなもの。
「○○家」という文字が入るように墓石の全体像と家紋をクローズアップした二枚を必ず撮ることを心がけた。

結論からいうと、今回の調査で得られた個人的満足度は低かった。
「変わった紋が見たい」という欲求の多い自分からしたら当然のことなのかもだが。
この墓地で多かったのは「橘紋」と「山形」紋だった。
それととある家(現状では伏せておこう)の墓が非常に多かった。
そのためか同じ紋が非常に多く、まだ数えていないが、10種程度しか確認出来なかった。

墓石の数は多くはなかったが、この墓地自体が山なので、山登りに近い状態。
墓石の全体像を写真に撮る時は特に問題は無いが、家紋を撮ろうと思うとしゃがむ必要性が出てくる。
墓石の数だけスクワットしているようなものだ。
運動不足の自分にはいい運動にはなった。

今回のエントリーでは具体的な調査結果は書かないが、まずは自分の第一歩として記しておくこととした。
(後日機会があれば書くこととする)


ちなみに正確な墓地の場所は以下の写真の通りである。
大文字の送り火で灯される「妙法」の「妙」のある山のすぐ側である。
地図1 地図2


ARK@遊鵺
プロフィール

森本勇矢

Author:森本勇矢


京都市在住。38歳。
本業である染色補正の傍ら家紋研究家として活動する。
京都家紋研究会会長。日本家紋研究会理事。
月刊『歴史読本』への寄稿をする他、新聞掲載・TV出演など。
著書『日本の家紋大辞典』(日本実業出版社)
家紋制作、家系調査などのお仕事お待ちしております。

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