謎の紋「うけ」

何がモチーフなのか? そんな家紋が数多く存在する。
現代ではその意味が失われてしまっているものなのだろうか。
当たり前のように使われている家紋でもそのデザインの本当の正体や意味が分からなくなってしまっているものもある。それらはまるで無理矢理、後生に作り上げたような説やこじつけられた(ような)説が定説となっているものもある。
それらはいくつかの説が存在するが、明確な答えの出ていないものが多く、腑に落ちない。
また、名称だけが伝わり、デザインそのものが不明な家紋も存在する。形状不明の紋は「発見されていない」「別の紋の呼び名(その家での通称)」「歴史から消えた」などの理由であるため探すことが困難だ。

今回とりあげる紋は「謎の紋」。そのモチーフの正体がさっぱり分からない。
このブログを読んで下さるアナタにも一緒に考えて頂きたい。私一緒にこの謎に挑んで欲しい。

謎の紋との出会い
今年の夏に出会った紋が図版1である。(図版1は私が制作したもの)
見つけた時は「なんだろう、これ? テトリスっぽいな」程度だった。何となく見たことがあるような気がしたので、調べればすぐに分かるだろうと楽観的に考えていた。
この墓は伊東姓であり、「庵木瓜じゃないのか」と思った記憶がある。(伊東姓の代表紋は庵木瓜)
それからこの家紋のことは忘れてしまっていた。

丸にうけ菱
図版1

今から数日前、ふとこの紋のことを思い出した。
京都家紋研究会では主なやりとりにFacebookを利用している。京都家紋研究会専用のグループで、それぞれが発見した家紋の投稿などを行い、日々論議や雑談で盛り上がっている。
「確か、あのテトリス紋はFacebookで話題になってたような。誰がアップしたんだっけ? 誰が撮ったんだっけ?」
と、すっかり頭から抜け落ちていた。
話題を振ってみるも反応も少なく、知らないという発言もあった。
もしかすると自分が撮影しただけで、アップすらしていなかったのかもしれない。アップした気になっていなかったのかもしれない、と再度パソコンをチェックすると容易く出てきた。
っと、同時に撮影時のことをありありと思い出したのである。

謎の紋を探る
思い出してすっきりしたところで、この紋の正体を探ってみることにした。
京都家紋研究会メンバーの情報では同形の紋が狩谷姓(金沢市)、金森姓(広島市)で記録しているという。ちなみにその方は「丸に変わり紗綾形卍」と名付けておられたようだ。
確かに「紗綾型万字(卍)」(図版2)と似てはいるが、紗綾型とは恐らく違う。因みに「紗綾型万字」は「紗綾型稲妻」の間違いである可能性がある。稲妻紋で載っていることが多い。私の著書では両方に掲載している。
そもそもの紗綾型の文様から考えると、このテトリスのような形状に独立させるとは思えない。つまりこの紋は紗綾型でも稲妻紋でも万字紋でも無いということだ。
今回の情報で分かったことは「いくつかの地域で見られる」「使用姓にばらつきがある」ということである。つまりこれは「家紋」である可能性が非常に高いのだ。
紋帖や文献などに見られない紋を発見することは非常に多いが、それが本当に家紋であるかどうかまでは分からないことがある。
個人の紋章、つまりそれは私紋(わたくしもん)や個紋(こもん)と呼ばれる紋の可能性である。家紋ではなく、個人が創作(または個人や故人のために制作)した紋の可能性もあり得るということだ。これらは一般的に家紋とは区別される。
家紋の定義は様々であるが、基本的には「家を代表する紋章」「継承される」という特徴がある。
例えば、非常に珍しい家紋を見つけたとして、また別の墓所で同じ家紋を見つけたとする。双方が同じ名字であればその一族が使っている家紋であることは一目瞭然。
今回のこの謎の紋は「三カ所」で「三つの名字」で発見されている。限りなく家紋に近い。
同族ではないと思われるが、同じ意匠(デザイン)の紋を使用しているということは、文献などにこの紋が掲載されている可能性もあるかもしれない。
家紋の発生には様々あるが、一つの可能性には「紋帖から選ぶ」ということがある。
しかし私の記憶ではこの紋はどの紋帖でも見られなかった気がする。
著書『日本の家紋大事典』を執筆するにあたって、かなりの数の紋帖をじっくりと見てきたが、この紋はどのモチーフにも分類されていなかったはずだ。最も似ているのは前述した通り「紗綾型万字」だけである。

隅立て紗綾形稲妻
図版2:隅立て紗綾形稲妻(万字)

謎の紋は「丸にうけ菱」
迷宮入りかと思われたこの謎の紋は意外とあっさり発見することが出来た。
別の調べ物で江戸時代の紋帖『早見紋帳大成』(安政三年:1856年)を捲っていると、なんとこの紋が掲載されていたのである。あまりにも唐突な出来事に目が点になった。
何となく見たことがある気がしていたのはこういうことか、と。しかし何故今までこの紋に注目したことが無かったのか、それが不思議で仕方なかった。
それが図版3であるが、「丸にうけ」と「うけひし」と書いてある。つまりこの紋は「うけ」ということが分かった。
「字」が苦手な私には本当にこれを「うけ」と読むのか半信半疑であったが、「うけ紋」の前のページには「鱗紋」が掲載され、「うけ紋」の次には「団扇紋」が掲載されているため、間違い無く「う」から始まる名称の紋であることは間違いなかった。
もしかすると……と念のために他の古い紋帖もいくつか見てみると、数冊にこの紋が同じように二点掲載されている。そのどれもが「鱗紋」と「団扇紋」の間に掲載されているのである。紋帖によっては読みやすい文字あり、改めてこれが「うけ」であると確信を得ることも出来た。
『早見紋帳大成』では目次に「うけ」の文字は見当たらない。しかし他の紋帖では「うけ」と目次に記載されるケースもあった。
以下に掲載される紋帖を挙げてみる。

  • 『早見紋帳大成』(安政三年:1856年)

  • 『無双広益紋帳』(明治十一年:1878年) 目次に記載

  • 『新紋集?』※正確な題名不明(明治三十三年:1900年) 目次に記載

  • 『紋づくし?(新紋集いろは引)』※正確な題名不明(明治三十九年:1906年) 目次に記載

  • 『図解いろは紋帖大成』(昭和八年:1933年)


以上である。こちらが把握していないだけで、他の紋帖にも掲載されている可能性もある。
うけ紋
図版3:うけ紋(『早見紋帳大成』より)

消された紋?
少なくともいわゆる染め抜き式紋帖(紋帳は図版3のように素描で描かれていたが、明治に入ると黒のバックに描く染め抜きタイプのものが登場し以後これが基本となる)には一切の掲載が見当たらない。
そしてこの「うけ紋」は大正以降の紋帖では存在が消されている。
上記にあげた『図解いろは紋帖大成』は昭和の発刊ではあるが、その内容は『早見紋帳大成』と酷似する。いわば復刻である。『早見紋帳大成』では二段の構成だが、『図解いろは紋帖大成』では三段の構成に変更されている。掲載される紋やその内容は同じであるため、同じ紋帖であると言っても差し支えは無いだろう。
しかし何故この「うけ紋」は紋帖から姿を消してしまったのだろうか。
もしかすると江戸時代では当たり前だった言葉「うけ」が近代ではその意味が失われてしまっており、染め抜き式紋帖を作成する際に「『うけ』とはなんだ? 分からないから載せないでおこう」ということになったのかもしれない。あくまで私の想像にしか過ぎないが「分からないものは載せない」というのはあながち間違いでは無いだろうかと思う。
もしかすると家紋事典や家紋図鑑の部類の書籍には掲載されている可能性もまだある。存在する大半の紋帖は所有しているが、家紋事典や家紋図鑑までは網羅出来ていない。そのため、落ちはあるかもしれない。
因みに『日本紋章学』『日本家紋総監』などは全ページを隈無く探してみた。手持ちの家紋に関する本にも記載は無かった。(もちろん見落としはあるかもしれないが)

「うけ」を探る
いずれにしてもこの謎の紋は「うけ」と呼ばれる紋であることが分かった。それだけでも大きな収穫である。
では、「うけ」とは何であろうか。
これが最大の問題であり、このブログを読んで下さっているアナタにも考えて頂きたいものだ。
まず、この「うけ紋」が何に分類されるものなのだろうかと考えてみた。
候補として私が挙げているのは「器材紋」「文様紋」「図符紋」の三つである。
これはあくまでも形状からの判断である。「自然紋」「植物紋」「動物紋」「建造物紋」「文字紋」などには適応しない形状だろう。
文様として一番近いものは何度か前述している紗綾型ではあるが、その形状に当てはまらないのは先にも触れたとおりであり、可能性が高くなってくるのは「器材紋」と「図符紋」である。

「うけ」という言葉を調べてみると、その中で可能性がある言葉が二つ浮上してきた。
それは「筌」と「有卦」である。
筌は漁具、有卦は陰陽道に関わる言葉である。この二つから私が想像したのは以下の通り。


  • 筌:筌は川底に沈め、周りを石で流されないように置いておく。この形状を象ったものか? ちょっと無理矢理過ぎるか。ちなみに筌は「うえ」ともいう。

  • 有卦:有卦船(うけせん)というものがある。これはいわゆる宝船のようなもので、「ふ」の付く字のものを七つ載せる。その中には富士山もあるから、もしかすると富士山を象ったものであろうか? 富士山紋は存在するのでこんなまどろっこしい表現をするだろうか?


他に「食(うけ)」、「浮子(うけ:いわゆる浮きのこと)、「槽(うけ:大きな入れ物)」などなど。単純に「受け」や「浮け」の可能性もあるかもしれない。
これら「うけ」という言葉に共通するのは「水」が関わってくるということだろうか。

ネットでいろいろ検索していると、とあるブログに「中島姓の家紋に筌」とあるが、詳細は不明である。もしこれが「うけ紋」のことであれば正体は「筌」の可能性が高くなるのだが。
「うけ」に関係しそうな家紋絡みの情報は唯一がこれだけであった。他には一切無い。
しかし何故「うけ」と平仮名なのだろうか。これが漢字であれば正体を探すことが可能だったかもしれないのに。「うけ」とは何かの略称かもしれないし、本来は全く別の名称のものであったことも考えられる。
この家紋を使用している家ではこの紋は何と呼ばれているのだろう。
そしてこれの意味は伝わっているのだろうか。



もしこの家紋をご使用の方がおられましたら、是非情報をお寄せください。
また、何かこの紋について知っているという方がおられましたら、ご一報ください。
「こうじゃないか? ああじゃないか?」というご意見もお待ちしております。
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謎・不明の紋たち

長らく放置していて申し訳ありません。

涼しくなってきた、とはいえ、京都はまだ時折暖かい日もあります。
真夏の頃と比べると随分と墓地調査もやりやすくなってきました。

さてさて。
現在までの墓地調査はすでに48カ所となりました。
例えば黒谷墓地や東大谷墓地はその墓石の多さから全てを調査し終えておりませんし、現状では下見段階です。
GoogleアースやGoogleマップを使っての墓地探しも気づけば500カ所を越えました。(京都だけで)
想像を超える多さにびっくりしております。
まだ発見していない墓地もあるんだろうなと思うとある意味ぞっとします。

初夏辺りから始めた墓地調査ですが、自分が想像していた以上に多くの稀少紋、というか紋帖や紋図鑑、さらには『日本家紋総監』にすら載っていない紋が多く発見出来ています。

「分類することが出来なかったよく分からない紋は掲載を断念した」
『日本家紋総監』に掲載するには情報が不確定なものも多かったと聞きます。
実際に自分が調査をするとそのような紋にも出会うことがあるということに非常に驚いています。

モチーフがそもそも分からない。
そんな紋をブログ上では公開していませんでした。
思うことも多く・・・。
今回、それらの紋をFacebookで公開することにしてみました。
現状ではテスト段階です。
何か問題があればすぐにでも削除すると思います。

いくら調べても分からない!
というものを主に掲載しております。
もし「何か情報をお持ちである」とか「ヒントを示すことが出来る」などあればコメントをよろしくお願いします。

下記のアドレスからご覧頂けるかと思います。
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.238710562857280.64844.100001550150773&type=1&l=0d6e6d5dde


それではまた。
ARK@遊鵺

これは家紋か否か

前回、「高山寺」にお邪魔したことをお伝えした。
鳥獣戯画で有名な「高山寺(こうざんじ)ではなく、「高山寺(こうさんじ)」です。
濁りません。
詳しくは下記のサイトなどでよろしくです。

http://jeanpaul1970.blog87.fc2.com/blog-entry-460.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1600/48695835.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~yamy1265/kyoto-75.html
http://mokuou.blogspot.com/2009/06/blog-post_18.html
http://tuusyou.web.infoseek.co.jp/t039.html



さて、昨日見つけたものをご紹介します。

これです。

山形に縦棒と点

「山形」に「縦棒と点」というかなり変わったものです。
正直なところこれが何なのかさっぱり分かりません。
形状から見ても「これって家紋なのか?」と疑問符が出ます。
「屋号ではないか?」
とすでに意見も頂いていますが、いやはやなんとも。

墓石に刻まれた苗字は「山崎」氏でした。
少し古い雰囲気のある墓石。
山崎姓の墓石に刻まれるものですし、上部にあるものは「山形」に違いなさそうです。
しかし「縦棒」と「点」の意味がさっぱりです。
昨日は全く気づいていませんでしたが、
墓石の写真をよく見ると、「山形」部分と「縦棒と点」の彫られた時期が違うようにも思えます。
「縦棒と点」は比較的近年に彫られたものなのだろうか?
仮にそうであるとしたら、その真意は?

当然この山崎家の方に聞くしか無いとは思いますが・・・。


もし何か情報をお持ちの方がおられましたら、是非コメントやメールしてください。

ARK@遊鵺

魚紋

父である森本景一が『家紋を探る~遊び心と和のデザイン~』を出版してしばらくしたある日、私の友人が我が家に来た時にその本を見せる機会があった。

「以前からお前にはいろんな家紋の話しとか聞かせて貰ってたけど、家紋ってほんまに色んな種類があるんやなぁ」
と本を捲りながら言った。
「基本的な文様から、なんでこれが紋に?ってのも多いな。でも、家紋にはその意義があって意味があるから。まぁ、好きな紋を使うのもアリといえばアリだ」
私はそう答えた。
「俺は釣り好きやし、魚の紋でも使おうかな。以前、用意してくれた浴衣が鯉やったやろ? アレめっちゃ気に入ってんねんで」
彼はそう笑いながら言い、私に尋ねた。
「魚の紋ってどんなんがある?」

この時まで特に考えたことは無かったが、「魚紋」というものは確かに見た事がなかった。
そしてこれがきっかけで「魚紋」を調べることになり、結果、月刊『歴史読本』に私の原稿が載ることとなった。
「魚紋」が私のデビュー(?)のきっかけであった。
今回のエントリーは『歴史読本』に書いた原稿から抜粋したものに追記を加えるものである。

さて、「ありそうでない家紋」として名がよく上がるのがこの「魚紋」である。
先に結論から言うと「家紋としては存在している」が答えだ。
とはいえ、魚紋は比較的新しいものが多く江戸時代の頃には存在していた形跡はない。
ゆえに家紋研究家の先人たちのいう「新紋」に違いないのである。


【家紋として用いられる魚紋】

まずは先に現在確認されている魚紋をご覧頂こう。
これらは全て『日本家紋総監』千鹿野茂著(角川書店)に掲載されるもので実際の墓石に彫られているものである。
以下の四点は「鯉」の項に掲載される。
鯉の滝昇り(浅野氏) 魚形(流山氏)
鯉の滝昇り(浅野氏) 魚形(流山氏) 

飾り輪の中に対い鯉(須藤氏) 丸に三つ波に鯉(鯉登氏)
飾り輪の中に対い鯉(須藤氏)、丸に三つ波に鯉(鯉登氏)

さらに「波・浪」の項と字紋の項に以下のものが掲載される。

丸に浪に魚 鯉文字
丸に浪に魚、鯉文字

他に一本気新聞でいずれも創作紋だが、3点の魚紋が確認出来る。
http://www.ippongi.com/2008/11/20/sonohoka/
映画監督:内田吐夢、料理研究家:田村魚菜、小説家:三浦綾子


【紋帖や家紋図鑑で図柄の確認出来る魚紋】

紋帖『江戸紋章集』に番外紋という項があり、そこに「鯉水」という紋が載る。
出所が不明だが字紋として「鯛の鯛」が存在する。これが何故字紋としているのか謎だ。
紋帖や紋図鑑の「瓶子(へいし)」に「糸輪に瑞瓶」という紋が載る。これの模様に描かれるものは魚そのものだ。どうみても壷だが、何故か瓶子紋として扱われている。

鯉水 丸に鯛の鯛 糸輪に瑞瓶
鯉水、鯛の鯛、糸輪に瑞瓶


その他に紋帖『平安紋鑑』の初版にのみ掲載されるのが、「登り鯉」「鯉の丸」「鯛の丸」である。
これらは「伊達紋」の項に掲載されているため、もちろん創作紋であり、図案である。
尚、『平安紋鑑』の初版はかなりレアなため入手は困難である。
「登り鯉」と「鯉の丸」は私がトレースしたため事典に掲載予定。「鯛の丸」は見送った。
後は、丹羽基二氏著書の『[家紋と家系]辞典』に「波に鯉の丸」が載る。
この紋は恐らく丹羽氏が創作したものであるとみられる。


【ネット上に載る魚紋のウワサ】

インターネットで魚紋を調べると様々な情報に出会うことが出来た。
その情報は大きく別けると三つである。
しかし残念なことにそのほとんどが間違った情報であった。

その三つを調査した結果を以下に記しておく。

鳥取市の長田神社では鯛を神紋としている
長田神社に直接電話して聞いてみた結果が次の通り。
「神紋自体は『揚羽蝶』ですが、神さまの紋を使うことは恐れ多いので、普段の紋は『対い鯛(むかいだい)』を使用しています(印刷物など)」
鯛の紋をいつから使用しているのか? という質問について。
「戦後から使用しています。普段神紋を使うのはやはり恐れ多いので、制作致しました」
何故鯛の紋?
七福神の恵比寿を祀っているということから鯛を使用している。
そしてFAXで送って下さったのがこの紋である。
対い鯛
確かに「鯛」だ。向かい合った鯛の周りには竹輪があしらわれている。
鯛が向かい合わせになっているのは、夫婦を意味し、円満を表すものであるという。

徳島県海南市の轟神社では鰈を神紋としている
普段は無人の神社であるため、なかなか情報を得られなかったが、なんとか連絡を取ることができた。
宮司さん曰く、神紋で鰈を使用していることについての回答は「分からない」とのことであった。
神紋は別に存在しているそうである。
ネットの情報では「『神社の裏の滝壷に住みついた』と言い伝えが残っている」と記述してあった。
確かに鰈についての伝説は残っているとのことだが神紋と関わり合いは無いようである。
情報が交差してしまったのだろう。

歌舞伎役者宗家市川団十郎は芸紋として滝に鯉をしようしていた
市川團十郎の芸紋について、市川団十郎事務所にメールで問い合わせてみた。
「家紋はあくまで三升、掘越家の家紋は近衛牡丹、それを簡略化して舞台で使うようにした替え紋が杏葉牡丹、これしかありません」
このような回答を頂いた。鯉は紋では無く模様であり、舞台衣装の柄ということであった。
模様、もしくは文様を「紋」と勘違いされていたようである。


【何故、魚紋は少ないのか?】

現在、魚紋で継承されていると確認されているのは「鯉登(こいと)」氏のみである。
元は小糸氏で改姓した際に家紋も改めたという。
現在見られる魚紋の全てが明治以降に誕生したものであることには違いないようだ。
ならばそれ以前は何故無いのだろう?
家紋が最も重要視された頃はいわゆる戦国時代である。
武家は戦を縁起に託すことが多かった。そして選んだ家紋もまたそのような意味合いを持つものが非常に多い。
戦国時代の家紋たちを見ると、無骨であったり、異形であったり、不気味だったりする。それは敵に対して、威嚇するなどの意味合いもあったといわれる。
同じ水中生物である蟹や海老が家紋に取り入れられたのはもちろんその姿形からである。鎧を連想させ、その強固な外骨格や威嚇する様が受け入れられた。
「足が速い」という言葉がある。魚は腐りやすいという意味で有名な言葉だ。
地に足がつかず腐ってしまう魚を吉祥と捉えなかったのだろう。

江戸期に入ると世の中は安定した。元禄の頃はそれは華やかで家紋のバリエーションも広がり庶民も家紋をつけた。
しかしこの時期に入っても魚紋は浸透しなかった。
これが一番の大きな謎なのかもしれないが、戦国時代に家紋として取り入れられなかったその思想が暗黙の了解となっていたのかもしれない。

ARK@遊鵺

詩人立原道造の家紋

「これは立原道造(たちはらみちぞう)という詩人の墓の家紋なのですが亀甲の中の文字は何かおわかりになりますか」
一本気新聞でお馴染みであり、著書に『家紋主義宣言』がある西村昌巳氏からツイッターでこのようなご質問を頂いた。
立原道造の家紋


見たところ、「三つ盛り亀甲(みつもりきっこう)」だ。
上部の亀甲には花角(はなかく)が入っている。
そして質問内容通りに下部の左右には謎の「角字(かくじ)」が入っている。
恥ずかしい話しではあるが、角字は苦手で正直なところ読めないことが多い。
『日本家紋総監』の「角字」の項と「亀甲」の項を見ても類似するものは見られないし、角字を調べてみてもやはり類似するものはない。
角字に関する資料が乏しいのでインターネットで探してみたがやはり見つからない。

角字を見ていると、法則のようなものがあるように見える。
この線から読んでいくしかないのだろうか?
角字の元は「篆書体(てんしょたい)」であることが多いようだ。
角字自体の数はそんなに多いものではないようだが、こちらで調べた資料ではやはり限界のようであった。

本来、白舟角崩(はくしゅうかくくずし)という。略称として角字崩し、角字といい、また腰文字ともいわれる。主に篆書体を簡略し、さらにデザイン性を持たせ、四角形に収まるようにしたものが角字。
それは家紋と全く同じ性質を持つようだ。
そもそも角字自体が、家紋や屋号(商標なども)に使うために考案されたものなのであろう。
どちらにしても書体に詳しくないので埒があかないと判断した私は仕事でもお世話になっているとあるハンコ屋さんを訪ねた。

「これは角字というより篆字ですね」
と、おっしゃった。先に書いたように篆字から角字になるケースは多いそうだが、これは比較的篆字に近いらしい。
「右のものは『東』だと思います」
そうおっしゃりながら資料を篆字の資料(?)を確認された。ほぼ間違いないようだ。
そして問題が左のもの。
「これは何とも言えないですが、『平』に近いと思います。ただし、上が突き抜けているのが謎です」
とおっしゃった。

篆字を角字にするとき、簡略を行ったり、増やしたり、デザインを変えたりすることがあるそうだ。
それを「簡略画」「増画」などと言い、篆字を意匠化する時に行うことが多いという。
つまりは家紋や屋号などに漢字を意匠化する究極の簡略が角字であるというのだ。

「っということは、左の『平』の字が上に突き抜けているのは、右の東に合わせて、バランスを取るためにデザインしたという可能性があるわけですね」
と、私は仮説を出した。

あくまでもこれは可能性であり、明確な答えではないかもしれないとのことで、もし何か分かればご連絡を頂けるとのことであった。
現状での答えは『三つ盛り亀甲の内に花角東平の角字』というような紋名になるのではないだろうか。

角字はその使用者の苗字や名前を使用することが多いようだが、この紋に関してはそれに関わるようなものではなかった。
当然何か意味があるのであろうが、家紋の形状からだけではそれの答えを出すには至らない。


ここまで調べてきたが肝心の「立原道造」という詩人について私は何も知らなかった。
簡単にインターネットで検索してみたが、この「立原道造」という方は詩人であり建築家だったようだ。そして24歳という若さで亡くなられていた。先祖に立原翠軒(たちはらすいけん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)があることから桓武平氏鹿島氏流立原氏であると思われ、「平」の字は平氏の意であろうか。
問題は「東」の字が何を表したのか?
単純に東京を表しているのかもしれないし、なんとも言えない。
ただ、先祖である立原杏所が号した中に「東軒」とあるので「東」もまた立原氏の先祖を示すキーワードなのかもしれない。


これ以上のことは現状では分からない。もう少し追っていこうと思う。

ARK@遊鵺
プロフィール

森本勇矢

Author:森本勇矢
京都市在住。41歳。
本業である染色補正の傍ら家紋研究家として活動する。
一般社団法人京都家紋協会代表。
京都家紋研究会会長。
日本家紋研究会副会長。
月刊『歴史読本』への寄稿をする他、新聞掲載・TV出演など。
著書『日本の家紋大辞典』(日本実業出版社)
家紋制作、家系調査などのお仕事お待ちしております。
ご連絡はFacebook、Twitter、Instagramなどからお願いします。

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